彼と私のあたおか日記

メンヘラと好奇心の子と最高にあたおかな日々

水槽の、中身。

お久しぶりですこんにちは、しきれです。

 

ブログを書く癖がついてないのはダメですね、すぐ放置気味にしてしまいます。

まああいもかわらずニート生活の真っ只中なので、ネタがないからと身も蓋もない事を言い訳にさせて下さいませ。

 

さて、ネタがないのに何故ブログを書いているのかと言いますと。

ちょっとだけ語りたい昔話があるからです。

 

「水のない水槽に、透き通った水を、

愛で溢れた水をそそぐのは、

きみだけでいいの。

 

きみがいいの。」

 

昔の私の小っ恥ずかしい願望です。

 

人はみんな、心の中に大きな空の水槽を抱えて生まれ、

そこに少しずつさまざまな愛情という水を貯めながら、

満たされた死にむかって進んでいる。

それが私が思う、生きる、ということなのです。

 

私の心の中の水槽は、外から見ると順調に水が貯まっているように見えているのですけれど、

その実、よくよく中を覗き込むと不思議なことに、空っぽなのです。

 

私は愛されて育ちました。

しかし、満たされて育っていません。

いつもどんな時も、誰と居る時も、独りでした。

 

私の母は、母である前に女である事を貫き、その両方を活かす事の出来ない人でした。

母に愛されて育った自覚はありますが、私は母を認める事も赦す事もきっと一生ないでしょう。

祖母や叔父、叔母は、私の事を目に入れても痛くないという程、私を愛し、可愛がってくれました。

けれど、私が一番必要としていたのは、親からの愛です。

私はその愛情を受けて育っては居ないのです。

 

何を贅沢な事を、と言われれば返す言葉もありません。

虐待を受けた訳ではない、衣食住に困った事もない、ええ、決して不幸な家庭ではなかったと思います。

 

それでも、水槽に水は貯まりません。

 

そういうものなのです。

 

私は自分の水槽に、自分が愛した人間からの水を貯めたいと切望して生きてきました。

 

人を好きになった事、この年になれば一度や二度ではありません。

けれどいつもどこか物寂しく、水槽はまるで穴が開いているように空っぽ。

 

穴を塞いで、じゃないと溢れてしまうから。

 

そう、言うことも出来ずに別れを繰り返して来ました。

誰にも本当の私の声が届かない。

ならば死んでしまいたい、消えてしまいたい、

けれど空っぽのままの水槽を抱えて死ぬのは嫌。

 

そんな私の中の稚拙な我儘。

 

水のない水槽に、透き通った水を、愛で溢れた水をそそぐのは、きみだけでいいの。きみがいいの。

 

君といたら私は今度こそ、この壊れた水槽を満たせると思うのです。

 

昔話、おしまい。